米子市内から城山が目の前に見えます。良く見ると城壁が見えます。
市民の軽い散歩コースとなっています。
今は城山と呼んでいますが当時は湊山と言ってたみたいです。
米子城は、西伯耆(鳥取県の西側半分は伯耆、更にその西ですから米子の辺りで拠点的な城で、山陰で最初に築かれた近世初期の城郭です。
天守のあった標高90メートルの湊山は、北側に丸山、東側に飯山、さらに南西側には中海という天然の要衝を擁する地で、 この城山を内堀で囲み、さらに外郭に武家屋敷を配し、外堀を巡らせるという、典型的な平山城の特色を備えていました。
湊山頂上には、四層五重の天守閣と四重櫓という大小2つの天守が、華麗に連なっていました。
江戸時代に発布された「一国一城令」の下、例外として存続を許された「支城」と呼ばれる城のなかで、このような天守をそなえたものは全国でも稀です。
城の建物は、ほとんど姿を変えることなく、明治にいたるまでその偉容を誇りました。
今は、その城の建物は残っていませんが、石垣や礎石などは城郭の形態をよくとどめ、その構造を知ることができる城跡として重要です。
また、米子城に関する文献・絵図資料なども数多く、良好な状態で伝えられています。
そのため、平成18年1月26日、米子城跡は国史跡に指定されました。
天正19年(1591年)吉川広家(当時の月山富田城城主・安来市にあり戦国時代は尼子氏の居城)が湊山への築城を命じている。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦後に吉川広家が岩国へ去るまでに築城の進捗具合は7割程度で天守のみは完成していたとされる。
関ヶ原の戦いでの功績により中村一忠が伯耆国領主となる。
慶長15年(1610年)美濃国黒野城の城主、加藤貞泰が大坂の陣の戦功として米子に転封。
元和元年(1615年)幕府の一国一城令により、当初は因幡国・伯耆国の両国で一城とされていたが因幡国・伯耆国それぞれに一城が認められ、 伯耆国米子城は破却を免れる。(例外的な措置であったと云われる)
元和3年(1617年)加藤貞泰、伊予国大洲に転封。(大洲市では米子弁が通じます。
「だんだん」→「ありがとう」、「がいに~」「がいな~」 →「ものすごく~、ものすごい~」、「しまう」→「片づける」等々)
元和3年(1617年)伯耆・因幡の全てが池田光政の所領となる。 寛永9年(1632年)池田光政の岡山国替により池田光仲が鳥取藩主となる。
家老で下津井城主の荒尾成利が米子城預りとなり、弟の荒尾成政を米子に派遣し城の管理をさせる。
明治2年(1869年)2月に荒尾成富が自分手政治(家老職にある家に藩内の重要な拠点の町を委任統治させること)の廃止を通告。
5月に朝廷より米子城返上の命令が下り、8月に当城を藩庁へ引き渡しが行なわれたとなっています。